由来 竹生島流棒術とは流祖から現在まで約 800 年以上続く 武術で、江戸初期以降、現在においても庄内地方に伝わ る棒術の流派です。 流祖である難波平治光閑(なんば へいじみつのり)は、源平合戦に出陣し、戦の最中に長 刀(なぎなた)の刃が折れながらも、残った棒だけを使 用して大勢を討ち取ることができました。光閑(みつの り)はさらに創意工夫を重ね棒術の技を編み出し、琵琶 湖竹生島の弁才天にあやかり竹生島流棒術と名付けまし た。 竹生島について 弁財天について 庄内藩での伝承 江戸時代初期には庄内藩(現在の山形県鶴岡市)での伝承が始まっており、中興の祖と呼ばれる梶原久三郎や幕末に新徴組と行動を共にするなどして活躍した岩瀬一心斎重周などの人物らを輩出。松山藩を含 めた庄内藩の各地で伝承されてきたことを示す文献が、鶴岡市郷土資料館をはじめ各地に多く残って います。 庄内藩での伝承(作製中) 当流の達人達 棒と太刀 竹生島流棒術では六尺一寸の棒を、半棒は四尺五寸から四尺程度の棒を使用します。 打ち方(うちかた)が用いている太刀(たちは)は三尺ニ寸で、皮に詰め物した袋状の鍔(つば)を使用しています。