様々な逸話を残す中興の祖 梶原久三郎

江戸時代中期に、鵜渡川原(山形県酒田市)に在住していた竹生島流棒術中興の祖と呼ばれる梶原久三郎は、ある侍が久三郎と試合をするために訪ねてきて、百姓姿(久三郎は各種武術の免許を持ちながら百姓もしていた)の久三郎に知らずに家までの道筋を聞いたところ、久三郎は「お前のような青二才が行っても怪我をするだけだ・・・」と伝え、それに怒った侍は切りつけたが、天秤棒であしらわれ、驚いて逃げていったエピソードなど、様々な逸話が残っている。酒田市の梶原本家には今も久三郎が使っていたとされる棒が残っています。(右写真:梶原家に伝わる棒)


幕末に活躍した先人たち 
岩瀬一心斎重周

同心であった第十五代岩瀬一心斎重周は青年期、「おまわりさん」の語源ともなった庄内藩(山形県鶴岡市)預かりの新徴組と一緒に江戸市中の警備に当たり、戊辰戦争では酒井吉之丞に従い町兵隊を率いて秋田方面に出陣しました。戊辰戦争後には同じく鶴岡市に講武所を構え、480 人の門弟がおりました。(左写真:岩瀬一心斎重周)
 また、松山藩(山形県酒田市)では当流の免状の位を受けていた毛呂太郎太夫という人物が、戊辰戦争において庄内藩三番大隊と共に槍隊を指揮するなど活躍したことが伝わっています。毛呂家は松山藩の筆頭家老を務める家柄であり、当流を修めていたことがわかる文献が残っています。